Le vent du Marseille

風のように、気の向くまま…

I am me. neither a front nor a back. If you don't understand it, you'd call me "X gender".

かなり前からお付き合いのある方は既にお伝えはしている事ですが、改めてというのも何ですが、付け加えたものを記しておこうと思います。

 

本来見るべきだった方々は既にその必要も無いほど粗末な扱いで去ってくれましたが。

 

私は「恋」と言うものを未だしたことがありません。

正確には、

したことがないままで来たので仮にあったとしても気が付かない

または

「恋の定義」だけが、世間一般で言われている基準に当てはめようとして当てはまりそうです当てはまらなかった

 

これに加わる

「愛情はもてる」

が、ここだけを抜粋されてしまうと、恰もアセクシャルかデミセクシャルか、そのような複雑なセクシャリティなのだろうと勘違いされる。

 

付き合いの長い「赤の他人ではない」友人には、「恋多き」という有り難い称号を頂いているけれど、それがそうなのかの自分へ問いかけることばかりでもある。

本当に恋なのか、と。

 

感情的にはなる。

特にここ数年でその起伏は、傍から見ると私が2つないしそれ以上の人格を持ち、起伏のある面は裏側の部分なのだ、と思われているフシがある。

それは本人の自由だからどうでもいいのでと言わなければいい一言を付け加える方でしたから初めから理解するつもりもなかったようでしたが。

 

確かに自分でも、二面性と思っていた時期は長くありました。

自分のことがまだ全くわからなかった頃ですが、今全て解っているわけでもありません。

少なくとも「自分で蓋をしていた部分」との事だけは解りました。過去の自分に向き合うことを避けてきた頃が別にあとから生まれたものと思わせていたらしいです。

 

学生時代の頃に幾らかの「恋かもしれない」という出来事は若さという経験のなさが加わるのと、自分はあくまでも異性に芽生える気持ちであると言うテンプレートしか持ち得てなかったので、後にもかなりの間恋だったのだろうと思っていましたが、ここ数年での自分と向き合い考え直してみた際に、客観視できるようにまで歳を重ねたこともあるでしょうが、

「コレクションや美術品のように、永遠とその姿を見ていたかった」

「恋ではなく憧れ、その人の内面に嫉妬ないし欲があった」

「恋ではなく情であった」

全てではないかもしれませんし間違っているかもしれません。

最近ですら、私は感情が動き始めると、ピークに届くまでの速度が速すぎ、熱に侵される。これは人間関係に限らずである。

そこも一度考えたことがある。

愛情と言えば、納得できる節があると。

物に対しても同様だからだ。

「物と同じなんて、人相手には違うだろう」と真っ向から否定されたこともあります。

ですが、私には物と人とを区別する意味の方が理解できませんでした。

物だから壊して言い訳ではない。人だから壊してはいけない。

 

物に情は持てないのか?例えば一つの役目しか行えない機械だったとしても、自分の為に動いてくれ、自分をいろいろな意味で豊かにしてくれる自分ではできないことを代わりにしてくれる機械にも?

そのような機能がない物でも、姿形が気持ちを和ませ、楽しませてくれる感情を豊かにしてくれる物にも?

逆ならば、人であるというだけで、自分への扱いや他人への態度も首を傾げるでは済まないのに隣にいなければならないのか?

 

恋と呼ばれている部分を飛び越えてしまうとも言えなくありません。

半端な気持ちで気持ちが揺らぐことはないのですから。

「それを恋と呼ぶんだよ」と言われたら、そうなのかもしれませんが、一つだけ問いかけたいのは、

「あなたがそう思うのもあなたが持つ根拠からで間違いないのか、受け売りではなく」

異性愛者が「それが当たり前」と口を揃えて皆が言う時に対しての私からの問いかけも同じですが。

当たり前と刷り込まれて、疑問を持たず、偶々異性に出会えてそのまま疑問を追求することなく来れたのはある意味幸せなのかもしれませんが、運がいいレベルで、ある意味では

「狭い世界で完結してしまうつまらない世界で満足できるのは、人生で時間を有意義に使えなかった残念さ」

と私は思ってしまう。考えない人は、あまりに多いから。恋や愛などのことのみでなくとも。

 

またこの部分だけを引き合いに出す「あいつは単なる偏屈な天邪鬼なんだ」と言われたこともあります。

多分そうなのでしょう。

物を横から見る癖がある、と言っただけで、その先をこちらから話す間もなく勝手に

「そのように横から見てほくそ笑んで馬鹿にしているような人は気持ちが悪い」

と叩き付けられたこともありました。

私が、嘗て正面、または外面とも言えるその部分である方面からは信頼され、影では自分の思い通りにならない人物を苛めるような人からされる側だったから生まれた余計な考え方で好きでそうなっわけではないが今はそんな自分も好きにたれた、等と長ったらしい説明は聞いてくれることのほうが稀である。

私も伝えずに過ごせるならそうもしたい。

 

「28年前に、一目惚れと思いデートに誘うも断られた女性が、今の茶飲み友達」 

 

などという事はネタにしか聞こえないのかもしれない。

 

また別の機会で、もしかしたら同性の方が好きなのかもしれないかも、とはぐらかすような事を今度は真面目に確認するでもなく、でも「こいつならあり得る」様な納得を早々にされたりするのもまた心外。

 

恋愛などを別にしても、好きになった相手の性別をいちいち確認してから加味したりするのか?

結果がどちらかだったと言うだけなのでは?

 

ここまで恋をするのか否がの様なことばかり書きましたが、私の中で一つ複雑故問題として残っている部分がある。

 

「好きになるとしたら、それは結果でしかないが、そのときに果たして自分は異性としてなのか同性としてなのか、さらにそれにより自分の意思は伝えられるかも変わってくるだろう」

という

表裏と呼ばれるが、その言葉を借りた場合自分が相手を好きになったきっかけなどからした結果、その後の考え方、価値観などは男性寄り、女性寄り、微妙だがある違いを伝えられるのか、受け入れてくれるのか、

 

そんなことを考えなければならない面倒な奴だから

「X gender」

と呼ばれることに異論はない。その方が理解してもらうのに用意になるのであれば。

 

でも己からは言わない。

私は私。

それ以上も以下ないから。